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中学・高校受験:学びネット

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2005/1 塾ジャーナルより一部抜粋

塾と学校の共存共栄
−子どもに基本的能力を身につけさせるために−

  東京私立中学・高等学校協会 副会長
東京女子学園中学・高等学校 理事長・校長
實吉 幹夫
 
     
 

はじめに

 新春特集の企画として、「これからの学習塾について分析・提言を」との依頼をいただきましたが、学習塾の経営的視点にたった提言は、ほかの方に譲るとして、現在変容していると言われる児童・生徒、そして保護者に、学校教育の場が奈辺を目指していくべきか、その中での塾と学校の共存共栄を考えてみたいと思う。

規制改革・規制緩和の合唱の中で

 バブル経済の崩壊後、自信喪失の感が増幅する日本社会は、21世紀に入ってなお、迷走の中を彷徨っている。多様化・グローバル化に対応するとして、各界各層で規制改革・規制緩和が叫ばれ、教育界でも、その時々におきる異常現象に過敏に反応し、その根幹にある課題をじっくり検証する時間も与えず、表層部だけを取り上げ、制度・仕組みを変えさえすれば、何やらバラ色の世界が目の前に現出すると錯覚させる議論が徘徊している。

 人は、なぜ教育を受けなければならないのか。アリストテレスの言を借りるまでもなく、社会的動物である人は、ひたすら自然児であるわけにはいかない。人として生を得たからには、自身の人生は、人として正しい人生を歩むものでなければならないし、生きるに値する人生を生き抜くことが求められる。そして何よりも幸福感に満たされた人生でなければならない。個人として尊重されることが前提にはなるが、孤立した個人としては生きられない。ほかとの関係性の中で、すなわち社会という枠組みの中で生きて初めて、人が人足り得るということになる。このことを、集団という組織の中で学び身につけるために、学校が存在するはずだ。

 佐藤学教授は、岩波ブックレット524で『21世紀は、「学びの時代」と言われています。21世紀は「生涯学習の時代」とも言われています。これらの言葉は21世紀の社会の可能性を示す楽天的な希望を含んでいます。しかし、子どもたちの大半は、それと逆行する生活をし、年々学習社会から排除されているのが現実です。そこから生まれるのが、学ぶことに対するニヒリズム(虚無主義)とシニシズム(冷笑主義)です。「何を学んでも無駄さ」「何を学ぼうと、どうせ人生は変わりはしないし、社会は変わりっこない」というニヒリズム、さらには「ひたむきに学ぶなんてばかばかしい」「学ぶことの意味がわからない」「自分はばかだから学ぶなんてばかばかしい」「どんな内容の知識や文化も自分には関係ない」「世の中がどうなろうと自分の知ったことではない」というシニシズムは、一体、なぜ生まれ、なぜこれほど多くの子どもたちの中に深く浸透しているのでしょうか』と警告を発している。学びから逃避する子どもたちの象徴として、家庭学習の時間の少なさがマスコミに取り上げられ、OECDが実施したPISA調査結果が、日本の15歳男女の現実として発表されたのは、記憶に新しい。

 学校週5日制・新学習指導要領の導入に伴い、2002・2003年問題として提起された学力低下問題は、解決のための方向性すら見えず、教育現場において、日々の対応に汲々としていると言ったところか。また、それに連なる入試制度の多様化は、学齢人口の減少を前にして、中等教育学校、高等教育学校の存廃にのみ力点が置かれてはいないか。さらに、東京都において顕著になった、小中高における公立学校の改革・改編の施策が、いたずらに混乱に拍車をかけているというのが実態である。これら一連の動きの中には、学校における主人公たる児童・生徒・学生が、先に述べたような人生を送る準備段階としての学校のあり方に対する理念や哲学が全く見えてこない。

私立学校の新たなる出番

 教育学博士「堀尾輝久」教授は、『現代教育の思想と構造』(岩波書店・同時代ライブラリー)の序で次のように記している。
現代国家においては、教育は「公教育」として、国民的規模において成立し、「機会均等の原則」にもとづく「義務教育制度」が確立し一般化している。この制度の確立の過程を、教育機会の量的拡大の視点からみれば、たしかに人類の進歩と教育の前進を意味するものだと言える。しかし、それはことがらの一側面に過ぎない。
すでに、「公教育」というターム自体が多義的であり、「義務教育」は、「権利としての教育」との関係が問われており、「機会均等」は、「社会的選抜原則」に堕す危険性が指摘され、「国民教育」に関しても、現存するそれは、批判の対象とされ、同時に、その批判を通しての真の意味での国民教育の創造が課題として提起されている。

 かくして問題は、そこで行われる教育の質いかんにかかっている。そして、権力による政策の一環としての教育の普及それ自体が、じつは、その質を規定し、教育が教育でなくなる危険性を伴っている。(中略)現代教育の矛盾とその克服の課題も、近代の価値財産の、現代的継承・発展を軸として、新たな「教育の思想」を育ててゆくことの成否にかけられている。これが、近代の理念のたんなるひきうつしを意味しないことはいうまでもない。近代の歴史的評価も、その価値継承も、現代と近代との断絶を自覚し、かつまた、現代への批判精神を堅持し、近代における「人権と科学の思想」を普遍的な価値につながるものとして継承しつつ、その上で、新しい未来を創造するという主体的な観点に立って、はじめて可能になるといえる。

 この指摘を素直に受け止めれば、公教育の一端を担う私立学校は、各学校の建学の精神と教育理念を検証した上で、その現在化・具現化を図り、学校像を再構築して舞台に上る千載一遇のチャンスを得ていると言うべきである。

共存共栄を求めて

 フランスの教育哲学者、オリヴィエ・ルブールは、「教育の目的は、情報や技能を与えるものでもなければ、純粋の知識を与えるものでさえなく、まさに能力を与えることである」としている。そして、能力を3段階に区分し、第1の段階を「基本的能力(人間に与えられるすべての利益と権利を享受するために、あらゆる子どもが獲得しなければならない能力)」。第2の段階を「特殊能力(人間が自分の職業や社会的活動あるいは余暇において身につける能力)」。第3の段階を「生きる能力(大人としての責任感を有する自律的存在となり、自分に関係あるすべての領域において自らの判断をしていける能力)」だと示した。

 子どもたちの成長過程に触れている私学と塾は、あらゆる子どもが獲得しなければならない能力とされる第1段階の能力を、今接している子どもたちに確実に身につけさせるべく、同じベクトルで手を携える時を迎えていると言えるのではないだろうか。

 学習院長田島義博先生は、産経新聞に連載中の「子育て改革」で人間力とは人間としての総合的力だと断じ、アタマ、ココロ、ハラ(キモ)、カラダそれぞれに力をつける必要性を言われた。あまたされる教育論議の中で、閉塞状況にある学校と、そこに通う子どもたちの現状を一面からとらえ、ともすると、学校・家庭・地域、そして塾の役割といったように、役割分業論が闊歩するきらいが散見される。しかし、国の財産である子どもたちが、幸福感に満たされた人生を生きていけるために、社会全体で子どもたちに責任を負うことが求められていることは確かなことであろう。もちろん、限られた空間と時間の中での行動である以上、学校・家庭・地域、そして塾それぞれに、なすことの限界があることは承知の上での話ではあるが。

そして最後に

 先に、学校における主人公は子どもたちだと言ったが、現代における子どもたちの変化変容に目が行き過ぎ、子どもたちの現状に合わせ過ぎた教育課程の編成や、器としての学校づくり(昼間定時制や通信制課程)が横行してはいないだろうか。耐える力を失った子どもたちの誕生を憂うる前に、私たち大人がなし得ていない事柄と、なし得てこなかった過程とをつぶさに検証し、体制を強化する必要が迫られている。「昔は・・・」式の話をしようと言うのではない。OECDが、21世紀に必要とされる「読解力」「数学的応用力」「科学的応用力」「問題解決能力」を設定し、各国の学力が21世紀の社会にふさわしいレベルに達しているかを調査した結果を厳粛に受け止め、「未来からの留学生」と呼ばれる子どもたちに接する努力をしていきたいものと念じる。

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