被災地に届けた
5,900人分の文具
修学館 代表取締役 木皿 圭一先生
仙台市太白区に本部校を構え、23年の歴史を持つ修学館。柳生本校はほとんど地震の被害は受けなったが、富沢校は1年間の閉校を余儀なくされた。同校の生徒は本校に移り、現在生徒数は小・中併せて前年度より半減。併設するそろばん塾(そろばん指導は夫人の木皿美喜子さん担当)には年長から小学6年生が通っている。
「幸い、震災の一週間後には、授業を再開することができました。塾に来られた生徒は全体の半分。この辺は建物の損壊はなかったのですが、ガスが復旧していなかったため、しばらく県外に避難していた生徒が多かったようです」
松下政経塾の元塾頭・上甲晃氏が主宰する「志ネットワーク」の会員でもある木皿先生は、物資の支援をお願いした。呼びかけに応えて、(社)全国学習塾協会や木皿先生所属の私塾指導研究会からも善意が寄せられた。現在はその後引き続き、東日本大震災東北支援対策本部事務局の窓口として活動している。
救援物資の中心は文具。それを仕分け、被災地に運ぶ。ガソリン不足が深刻だったが、志ネットワークの同志が東京や新潟から100リットルも運んできてくれた。その結果、7月初旬までに5,900人分の文具を市町村の教育委員会や各学校に届けた。まだ1,000人分ほどの文具を預かっている。
「文具を無償提供することは、地元の文具店の経済活動を阻害することにもなります。今後の支援活動は、慎重に行う必要があると思っています」
自立学習で塾生の60%が
偏差値60以上
同塾は一斉授業を行わない個別対応指導の塾。映像授業とテキストをメインに使用している。生徒は塾に来たら、その日の学習内容を受け取り、自学自習を行う。わからないところは講師に質問できるほか、映像授業を見て、理解する。
「自立型の塾で失敗するのは、手をかけすぎるから。黙っていたら、生徒は動きます」と木皿先生。
「教えてもらおうと思っている生徒はなかなか伸びないですが、自分からやろうと思える生徒、うちの塾のやり方がマッチした生徒は点数が上がります。22年度の新みやぎ模試では、中3生25人の60%が偏差値60以上を達成しました」
同塾のシステムの中でもユニークなのは、確認テストだ。塾でやる確認テストの紙の色は白。同じ内容で青色のテストが宿題として出される。さらに翌週同じ内容で黄色のテストを行われ、80点以上にならないと何度もやり直す。しかも最初は10分だったテスト時間も黄色では8分と時間を短縮。タイムプレッシャーをかけることで、集中力を養っている。
授業をしない自立型ではあるが、テキストの準備には膨大な時間を割いている。英語の教科書の全文を写す「英語本文書写」は手作り。カリキュラムもすべての教科書を読み、学習内容を把握してからオリジナルを作成している。
木皿先生は東京でサラリーマン生活をしていたが、仙台に帰郷。先輩のやっていたそろばん塾を引き継ぐ形で、塾をスタートさせた。
「素人だったので、当初は塾をどう運営していいか、わかりませんでした。そこで自分の勉強にもなると、教科書を全部調べて、カリキュラムを作ったのが始まり。見えないところの準備が大切だと思っています」
同塾では生徒のモチベーションを高めるため、「サクセス講座」として、年3回、さまざまな分野で活躍している講師を呼んで、講座を開いている。
「今後は地域に根ざして、自分で夢を持てる子どもを育てたい。震災の影響で、新入生の募集ができなかったのは痛手ですが、その分、支援活動の時間が確保できたのは良かったと思っています。生徒数を増やすことより、今いる生徒をきちんと送り出したいですね」と木皿先生は話してくれた。
震災の教訓を生かす
対応指針を細かく策定
名学館 八乙女校 塾長 木村 成夫先生
仙台市泉区にある「名学館八乙女校」。塾長の木村成夫先生は、震災発生時から5月まで、生活と業務の記録を克明に残していた。「3.13 本棚・ラックから荷物崩落、室内壁ガタガタ、教室停電」「3.15 教室再開検討も立案できず挫折。教室断水」「3.21 臨時授業クラス編成試作(難航)」等、そこに記された文字を追うだけで、震災当時の様子がリアルに浮かびあがってくる。
19、20日に講師集会を開き、授業内容などを検討。臨時授業として再開できたのは、24日だった。時間は9時半から17時半まで。午前中は小学生、午後は中学・高校生に振り分けた。当時は仙台市の小・中学校がほとんど休校。「学校代わりになればと、生徒には半日は塾にいてほしいと思いました」と木村先生。何もしないで家にいる子どもたちを心配する保護者も多く、こうした声に少しでも応えたかった。「この臨時授業を振替授業として、実施したところ、大変喜んでいただいた」。
また同塾では、地震発生時の対応指針を細かく策定。例えば、これまでスリッパに履き替えていたが、停電の暗闇の中で混乱しないよう、教室には外靴のまま入室するようにした。講師も着替えができないことを想定し、普段着のままでの授業を許可した。
さらに保護者には、連絡票の提出を依頼。緊急時にはどのように対応してほしいか、帰宅道順も子どもと相談して、詳細に記載してくれるよう、お願いした。
「電気の消えた真っ暗な中では、広い幹線道路だと、同じ道でもすれ違ってもわからないこともあります。左の歩道を通るのか、右の歩道を通るかまで確認してもらいました」
木村先生自身も常にラジオと懐中電灯を携帯している。震災で得た教訓を、今後に生かしたい考えだ。
危機下にあっても
自分で判断できる教育を
名学館八乙女校の開校は2003年。生徒数は80人。6〜7割は中学生という個人指導の塾だ。震災の影響で新入生は、例年の半分まで落ち込んだ。
「安全確保をしっかりと行い、『安全なのは地域の塾ですよ』とアピールしたいですね」
今回の震災ではライフラインなど生活の基盤が大きく崩壊し、普段あるはずのものが全く入手できない状態が生じた。文明や文化など、普段気付かずにいたものが、突然変容していく状況を見て、「何かあったとき、どこに価値観を見出すか。こうした社会を生き抜いていくためには、自分自身で判断できる基盤となるものを教えなければ、とも感じました」と語る。
また例えば、避難所に200個のおにぎりがあったら、どう公平に分けたらいいのか。実は算数の学びは生きることに直結している。さらに自分で判断し、行動することで、全体をリードできる人間になってほしい、と木村先生は考えている。
同塾では、震災直後から2ヵ月間、地元の河北新報と日本経済新聞をすべて保管している。震災の状況を日々克明に記録していた新聞記事。木村先生はこの新聞を学習に役立てられないかと思案中だ。新聞を読みこみ、氾濫する情報をどう捉えたらいいのか。震災は学びのありかたそのものにも一石を投じている。
震災で通信映像教材の
良さを再確認
早稲田教育ゼミナール 宮町校 教室長 阿部 俊紀先生
仙台市青葉区にある早稲田教育ゼミナール宮町校。地震発生当時の様子を教室長の阿部俊紀先生は、「本棚が倒れて足元はぐちゃぐちゃ。それでもパソコンやコピー機は無事で、建物はなんともありませんでした。津波の心配もなかったので、一度家に帰ることにしました」と語る。
その後、FC本部と連絡を取り、教室には連絡先を明記した休校の張り紙をすることに。自宅から教室まで車で1時間ということもあり、以後はガソリン不足で教室に行けず、再開できたのは4月第1週目からだった。
同塾では映像教材を導入しているが、震災によって、通信映像教材の良さを再確認することになった。
導入しているのは「すらら」と「ベリタスアカデミー」、「養賢Web個別指導学院」(養賢ゼミナールの予備校講師によるマンツーマンのライブ授業)の3つ。特に「すらら」は自宅学習もできるため、松島から通塾していた生徒は、休校中、自宅で学習していた。それを見た知り合いの生徒(東松山市)も「すらら」をやりたいと申し出があり、同塾からIDを発行して、勉強しているという。
震災による退塾者は出なかったものの、振替授業ができなかったため、翌月引き落とし分と相殺する形で授業料を返還。保護者から問い合わせがくる前に案内・対処したせいか、クレームはなかった。
「今でも余震がしょっちゅうあるので、生徒は震度3や4ではみんな驚きません。しかし、中にはおびえてしまう生徒もいるので、言葉がけなどをして、不安にさせないようにしています」。生徒の心のケアも必要だと感じている。
安心して勉強できる
環境をつくりたい
阿部先生は元々建設関係の仕事をしていたが、「地域に貢献できることがしたい」と40歳の時に塾を開校。早稲田教育ゼミナール宮町校とワン・ツー・ワン個別学院南中山校の2校を運営している。
震災後の心境の変化を以下のように語る。
「塾は子どもたちの生活の一部を担っている、と強く感じました。震災後は、とにかく普段の生活に早く戻してあげたかった。子どもには決まった時間にきちんと勉強する生活をしてほしい。子どもたちが『勉強したい』と思ったとき、安心して継続して通え、勉強に打ち込める環境をつくりたいと思いましたね」
それには、家庭でも学習ができる環境が必要。映像教材は今後、重要になってくるだろうと阿部先生は考えている。
阿部先生は開塾前、青年会議所の活動を通して、子どもたちと数多く触れ合う機会があった。「青年会議所では、すべてゼロから自分たちで事業を考えることが多かった。そこで培われた経験が、今の塾運営に生かされていると思います」。
今後は高校部に力を入れ、大学受験にも対応できる塾にしていきたいと考えている。 |