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中学・高校受験:学びネット

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2018/9 塾ジャーナルより一部抜粋

~ 永遠に未完の塾学 ~

第26回 人生は運次第

俊英塾 代表 鳥枝 義則(とりえだ よしのり)
1953年生まれ、山口県出身。
京都大学法学部卒業後、俊英塾(大阪府柏原市)創設。公益社団法人全国学習塾協会常任理事、全国読書作文コンクール委員長等歴任。関西私塾教育連盟所属。
塾の学習指導を公開したサイト『働きアリ』(10,000PV/日)には、多くの受験生
や保護者から「ありがとう」のコメントが。
成りたい人格は「謙虚」「感謝」「報恩」…。

 昭和の名経営者、松下幸之助の残し たエピソードの中で最も人口に膾炙し ているのは、「入社試験の最後に必ず 受験者に『あなたは運がいいです か?』と尋ね、『私は運が悪い』と答 える人は採用しなかった」という逸話 であろう。

 私は最初、運という、自分では責任 を持てないものでその人の採否を決め るなんて、ひどい話だなと思った記憶 がある。

 本当にその質問だけを決め手に採用 不採用を決めたのかについては疑問が 残るし、しばしば引用される有名な発 言なのに、その言葉の真意を納得でき るように説明したものをまだ見聞きし たことはない。

 しかし、自分の人生をふりかえって、 「自分は運がよかった、運だけでここ までやってこれた…。」と思うことは よくある。

 何事も真剣に考えることができない 性質で、才もなくただ行き当たりばっ たりで生きてきたのに、塾という一つ の仕事をこの歳までなんとかし続ける ことができた。これは、運以外の何物 でもない。

いつ塾を開業するか

 私は二十九歳まで、雇われて教室長 をしていた。その教室の入っているビ ルが、地下鉄の路線延長工事で取り壊 されることになった。オーナーが年度 末にビルの売却を決意し、急に職を失 うことになった私は、結婚を決めてい た女性の実家近くで開業することにし た。

 開業資金ゼロ。開業地に知人ゼロ。 顧客に訴えることができる実績なし。 あるのは塾講師歴数年で蓄えた中途半 端な教務の知識だけ。それでも何とか なるだろうという若さと無鉄砲さを頼 りに、能天気に開塾した。新婚の夫婦 二人で子どもたちを教えたら、住居に 借りたマンションの家賃くらいは払え るんじゃないかくらいの軽い気持ちだ った。

 私の年齢と、境遇と、適度な貧乏く ささが、当時の中学生とその親の感覚 に合ったのであろう、何のとりえもな い塾に、開業二ヵ月で四十人をこえる 塾生が集まってきた。三十歳より若く ても、逆に歳をとっていても、これほ どうまく集まることはなかったであろ う。ただ運がよかっただけで、私の能 力の寄与分はゼロである。

どこで塾を開業するか

 普通、新しく店を始めるときは、周 辺の市場調査くらいはして当然だが、 私にはそんな知識すらなかった。

 教室を借りる資金がなかったから (私の結婚前の預金通帳の残額は五百 八十円だった)、新婚の住居として借 りたマンションの一室と、私鉄で一駅 離れた、妻が結婚前に暮らしていた実 家のひと部屋の二か所で開業すること にした。ともに、六畳ほどの部屋に長 机を向かい合わせで四つ置いただけ。 塾と称することさえ詐欺に近かった。

 開業後十年以上たって知ったのだが、 私の住む市はもともと大和川の対岸同 士で行き来のなかった二つの村、わが マンション教室がある村と、実家教室 がある村が、人口の辻褄合わせで合併 して市になったものだった。どちらの 村も、一か所では商圏として成り立た ない土地だった。最初、奇跡的な偶然 が重なり二か村に分かれて開業したお かげで、私の塾は細々でもやっていく ことができた。

 また、住居として借りたマンション で、勝手に塾を開くなどということは 当然契約違反である。ところが入居後 に判明したのだが、マンションオーナ ーの娘さんが、上の階で音楽教室を開 かれていた。それがあってか、オーナ ーは知った後も黙認してくださった。

 ここでも、わが塾が存続するのに運 と偶然以外の要素はゼロであった。

一斉授業か個別指導か

 私が開業した頃、個別指導なる語を 関西で見聞きすることはほとんどなか った。

 私の塾は、クラス授業や一斉指導を するにはあまりにも狭すぎた。塾生が 座ると、その後ろを通って移動するこ とさえできない。そこで、自塾の部屋 の狭さをごまかす言葉として『パーソ ナル・レッスン』という語をでっちあ げた。無学年制、教科自由、一人の講 師が少人数をマン・ツー・マンで指導 (一人で八人をみて、どこがマン・ツ ー・マンやねん?)をうたい、授業料 は相場の五割り増し、それでも塾生は 来てくれた。

 塾生が増えてきて、「もうパーソナ ルではないぞ、これは。」と感じ始め たころ、ある女子生徒から、「先生、 一クラスにこの人数なのに月謝が高す ぎる!」との抗議。それもそうだと納 得して、授業料を三分の二に下げて一 斉授業に移行した。

 おかげで、その後の個別指導ブーム に便乗することはできなかったが、そ の後を襲った個別バブルの崩壊にも巻 き込まれることなく、自塾の独自性を 維持することができた。

 結果的に逆張りをしていたおかげで、 混乱の時代を世情に翻弄されることな く過ごすことができた。運がよかった。

どんな生徒を集めるか

 四年前、片方の教室の小五クラスは ずっと一年間、性格のよい賢い男の子 と、頑張り屋の女の子の二人だけのク ラスだった。経営的には芳しくないが、 授業は充実していて教えていて楽しか った。この子たちが満足できるような 塾にしたいと、このコラムで書いたこ とを覚えている。

 しかし人間、欲には勝てない。春先 に生徒がそこそこ集まれば、それで満 足して募集方法やクラス編成は旧態依 然のままだった。ところが、ある年か ら急に、生き帰りの塾生や保護者に関 して、近所の苦情が増えてきた。授業 中のクラスが、目に見えて荒れてきた。 春先集まりのよかったクラスから、ち ょっとずつ退塾者が出始めた。

 「このままでは潰れる!」と、私は 震撼した。

 二人だけだった旧小五クラスだけが、 中学生クラスになってからも少しずつ 最初の二人を慕う同級生が集まってき ていて、いつのまにか教えるものにと って干天の慈雨とでもいうべきクラス になっていた。

 春を迎えるにあたり、私は社員に宣 言した。

 「もう一度塾を一から作り直す。あ の二人のクラスのような子たちだけが 集まる塾にする。しばらくは先生たち に辛抱をお願いするかもしれないが、 これしか生きのびる道はないと思う。 我慢してついてきてほしい。」

 社員全員が、静かに、しかし力強く、 頷いてくれた。

 私は、まわりの人にも恵まれていた。

「私は、運がよかった」

 今、もし私が松下幸之助氏の前に立 つ受験生であれば、「私は運がよかっ た」と胸を張って答える自信がある。

 この先も、運のよい男であり続けた い。

 よくよく顧みれば、私を運のよい方 向に知らぬ間に導いてくださっていた のは、こんな私をかってくれ、引き上 げてくれた多くの恩人たちであった。 神様が、そうした恩人たちを通して、 お前にはまだするべき仕事があると、 私に運を授け続けてくださったように 思う。

 死ぬまで運がよい人間であり続けら れるように、恩返しをし続けつつ生き ていきたいものだ。

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