「塾に来た子は皆伸びる」、と言いたいけれど
入塾時、立ち遅れているように見える子であっても、ある程度こちらの指導に従ってくれたら、成績を徐々に伸ばすことはそう難しくはない。また、入塾した当初、実際に授業を担当してみて、「相当賢い、期待できる。」と見込んだ子の大半は、予想通り、すくすくと順調に伸びていく。
ところが最近、賢(かし)こそうだ、能力はありそうだと最初判断したのに、期待通りになかなか伸びてくれない子の中に、従来見かけなかったタイプの子どもが現れはじめた。
なかなか伸びない子の共通点
こうした新種の、能力は十分あるように見えるのに、なかなか伸びてくれない子の共通点を抽出すると、次の三つに要約できる。
- 発言内容は同年代の子よりかなり大人びている、いわゆる「耳(みみ)年増(どしま)」(だから、こちらは最初「賢い」と思わされる)
- 「はやくしなさい。」「さっさとやりなさい。」ができない、そして、この種の言葉に強い拒否反応を示す
- 講義や説明を真剣に聞こうとしない、また、やり方を教えても、教えた通りにはしない、できない
要するに、なかなか伸びない子は、一言でいうと、「素直じゃない」。
大人を激怒させる、「素直じゃない子」の授業態度
「素直でない子」の保護者の方と懇談していると、わが子が学校で、「教師を馬鹿にするな!」と先生に怒られたという話がしばしば出てくる。また、能力に比較すると低いテストの点数も問題だが、先生の主観が加わる通知表の評価、内申書の評価のほうがさらにそれより数段悪い。
ところが子ども自身は、自分がなぜ先生を激怒させるのか、なぜ先生が怒って低い評価しかしてくれないのかを全く理解できていないことが多い(というか、理解しようとする発想自体が「素直じゃない子」にはほとんど存在しない)。
「素直でない子」は、大人の一番逆鱗(げきりん)に触れるところを本能的に抉(えぐ)るように突いてくることがある。
わかりやすいように、典型的な「素直さが致命的に欠けている子」の、授業風景を描写してみよう。
「まず、この単元ではここが重要だよ、このやり方を理解して、しっかり覚えないといけないよ」と講師が声を張り上げて説明しているとき、「素直じゃない子」は顔をこちらに向けない、たいてい下を向いて何か他のことをしている。
では、実際に解いてみようとなって、講師が机間巡視を始める。「素直じゃない子」の横を通ると、講師が言った通りのやり方は絶対していないからやり直させる。それがいやで、「素直じゃない子」は、やっている箇所を上手に隠すようになる。あるいは、堂々と解答だけを写したりする。
そして、講師が半(なか)ば呆れて移動して他の子に説明し始めると、はかったように「素直じゃない子」は、その説明を遮(さえぎ)るように「先生!」と質問をしてくる(それも、決まって、最初の説明のときに一番大事だと強調した部分を)。
だからあれだけ言ったのにとぼやきたいのを我慢して「素直じゃない子」のところに戻り、もう一度教え始めると、一言(ひとこと)二言(ふたこと)説明した段階で「あ、わかった、もういい。」と、説明を遮(さえぎ)る。ひどいときには手でシッ、シッと追い払う動作をすることさえある。
これだけのことをしておいて、「素直じゃない子」は授業後、講師のところににこやかな笑顔でやってくる。「先生、今日学校でこんな面白いことがあって…。」と一生懸命話しかけてくる。講師の機嫌も、後始末の忙しさも、彼(or彼女)の眼中には全く存在しない。
これが今風の「素直じゃない子」「困ったちゃん」である。本人に悪意の自覚がない、いわば「天然物」であるだけに、かえって始末に困る。
では、こうした「素直じゃない子」は、どういった経緯で、どんな条件があると出現してくるのだろうか?
厳しく強権的な親が理由か?
昔(今から二十年ほど前くらい)も、これに似た「困った子」は存在した。
昔の困った子の共通点は、やや時代遅れの厳しい親の存在であった。
有無を言わさず拳骨(げんこつ)がとんでくるような、当時でも絶滅危惧種に近かった頑固親父がいる家庭の子は、家庭で抑圧されている分、外で発散してバランスを取ろうとした。だから、外(そと)の大人の言うことを素直に聞かない傾向があった。しかし、昔の「困った子」は、厳父(げんぷ)の顔色を見る癖はついていたから、大人の表情を読み取る技術は持っていた。そこが今の子と違う。
今の、素直じゃない子、困ったちゃんは、そもそも、大人にも機嫌の良(よ)し悪(あ)しや、好き嫌いの感情があるなどということを、一度も想像すら、したことがないように見える。
また、家庭の様子を探っても、昔風の独裁権力者は、今や絶滅して、どこにもいない(少なくとも、塾に子どもを通わせるような家庭には)。
決して「賢い」と、褒めることなかれ
今風の「素直じゃない子」は、圧倒的に第一子、それも長男が多いように思う。
白状すると、私自身も、第一子、長男であった。それに、素直に先生の言うことが聞けない子であった。以下は、そんな私の、反省も含んだ、今風「素直じゃない子」に対する、幻想に近い推測である。
第一子は、親の期待を一身にあびて生まれてくる。立てば親は囃(はや)し、人より1日でも早く歩めば大喜びし、話す言葉が他の赤ちゃんより一語でも多ければそれだけで鼻高々、わが子を誉めそやす。
特に男の子の場合(女子に比べて)、賢いか否かが評価の最優先基準になりがちではなかろうか。人より少しでも多くのことを知っていたら賞賛し、人より気の利いたことを言うとわが子は大器と勘違いしてしまう。
「おまえは賢い!」が、唯一の褒め言葉になり、子は「賢い」ことこそが自分の価値だと思い込んでしまう。
そして人間は、何かと理由をつけて、自己を尊しとみなし、他人(ひと)を見下ろす、悲しい生き物だ。
あっという間に、自分は「賢い」がゆえに人よりは勝(すぐ)れているのだという、慢心、驕慢に陥ってしまう。
「子どもは、褒めて育てろ」は、今や誰もが口にする金言だが、この言葉は、大きな陥穽(かんせい)を含んでいる。
人間の賢さなんて、たかが知れている。いくら「よくものを知っている」子であっても、ちょっと人より早熟な子どもの持っている知識などすぐに底をついてしまう。そして、年齢、学年が上がっていくほど、新しいこと、難しいことを学ぶには、まず謙虚に先(せん)達(だつ)の話を聞き、最初は素直に先人の技術を踏襲しないと、一歩も先には進めなくなる。
しかし、「おまえは賢い」とだけ褒められて育った子は、その「賢い」の意味を、「人が努力して習得することを先に苦労なしで知っていること」だと誤解させられたままで大きくなる。
また、生来「賢い」はずの自分が、賢くないはずの他人の言うことを聞いたり、その感情を顧慮したりしないといけないなどとは、想像すらできない。
「子どもは褒めて育てろ」は正しい。
しかし、ゆめゆめ「賢い」と褒めることなかれ。
「よく努力した」、「よく頑張った」、「人より努力できるところが偉い」と褒めて育てないと、しなくてよい苦労をさせることになる。 |