学者バカがそろって何が教育再生だ!
昨年12月24日朝日新聞に、「塾禁止」論が政府の教育再生会議の中から出てきた。内容は「塾は出来ない子が行くために必要だが、普通以上の子は塾禁止にすべきだ。公教育を再生させる代わりに塾禁止とする」ということだ。しかし委員の中には「日本の数学のレベルは学校ではなく、塾によって維持されている」という意見もあり、第一次報告の原案の中には「塾禁止」は盛り込まれていない。
それにしてもとんでもない暴言だ。そもそも塾が出来た理由を知っているのかと言いたい。学者バカがそろって何が教育再生だ!出来る子も、出来ない子も、塾が支えてきた事実がある。公教育の体たらくが塾を増やしたのである。親は知っている。学校には任せられないことを。塾に通っている生徒の塾に対する感想は次の通りである。(1)よくわかる (2)塾の先生には何でも相談できる (3)塾は楽しい これらは本来税金でまかなっている学校がやるべきことではないのか。
公権力の座にいるものが塾禁止を発言するとは民主主義に対する挑戦である。塾はもはや一般国民が認めている民間教育機関である。多くの講師、その家族、関係者が塾を生業とし、夢を持って生活している事実も付け加えておこう。学校と塾が正々堂々と競争すればいい。それで塾がなくなればそれもよし。選択するのは国民だ。少数の教育音痴のエリートが決めることではない。しかし一方、塾に目を向けると、教育再生会議の委員が言うとおり、商業主義に走っている傾向があることも否めない。一部の大手の塾がそうである。そもそも塾が上場するのは反対だ。商品があって上場するのはわかる。将来、国を支えていく子どもは商品ではない。
私は偽の塾はつぶれるべきであると言ってきた。塾も学校もどれだけ子ども、生徒の学力アップ、人格形成に貢献できるか、サービスできるかである。かつて、このコラムの中で「先生、なんで勉強するの」と言われて、きちんと答えられるかと問うたことがある。「勉強はなりたい自分の可能性を拡げるプロセスである」「教師は生徒の援助者である」
政治的論争に関係なく塾の先生、学校の先生は生徒にいつも向き合っていよう。政治家に、学者に現場の教育は任せられない。地味な学習を私と共に学ぼうや!
生徒を魅了し、やる気にさせる演出スキル
最近、小学校5年の子どもに会った。この子は塾に通っている。学校の先生も塾の先生もあんまり好きではない。だからその先生に習うことも気が乗らないし、当然のことながら、学力がつかない。特に算数が苦手である。よくよく聞いてみると、算数が嫌いなのではなくて、教えている先生が嫌いなのである。
それからこの子は塾を変えた。習った算数の先生は70歳の年配のベテラン。喜んで、塾に行くようになった。当然成績が上がってきた。この子に言わせると、カッコええ先生だと言う。いろいろ聞いてみて、分析すると次のようなことがわかった。(1)算数をユーモアをまじえておもしろく教えてくれる (2)繰り返し、繰り返し教えてくれる (3)算数は誰でもわかるからギブアップするなと言ってくれる (4)子どもがどこで落ち込むかを知っている (5)時には厳しく時間をかけてやらせる (6)帰るとき、がんばったねと言って必ず声をかけてくれる 以上の6項目だけで子どもの心をつかんだのである。
子どもが変わるのは実はちょっとした教師の気配りと工夫である。コラム・連載2で教師の不人気の原因ワースト10を紹介したが、この先生はワースト10のどれにも該当していない。現役を退いてかなり経っているが、小学校5年の子どもにとってはかっこいいのである。生徒を魅了する第一はわかりやすい授業である。これが基本である。授業がわかりやすくなければ、若かろうと、イケメンであろうと、ユーモアがあろうと、パフォーマンスをしようと、生徒をほめようと、近づこうと、何をしてもだめである。授業がわかりやすいから、ユーモアも、パフォーマンスも生きてくるのである。
まずは、教える教科の商品化である。連載4で瀧山の英語の商品化を紹介した。徹底した予習をすると、必ずその人独自の教え方が目に見えてくる。市販の参考書を頼りにしたり、教科書の解答を頼りにしているようでは商品化はありえない。(手前ミソで申し訳ないが、昨年度、全国の塾、学校で「瀧山の9割は取れる究極のセンター対策英語」を講演しましたがたいそう好評でした。)簡単に点が取れる方法の商品化に成功したのである。9割取るために、過去問を徹底分析した結果ある法則を見出したのだ。
私の友人である日本史の横田伸敬先生、古典の荻野文子先生もこの商品化に成功したのである。一般の先生はこの商品化はもちろん、生徒にとって、わかりやすくする工夫がない、スキルがない。教えることを生業にしている人は、わかりやすい授業と商品化が不可欠である。政府の教育再生会議がすばらしい教育政策を打ち出したとしても、つまり手形を切っても、現場の教師が手形を落とせないのが現実である。
元気・活気・覇気・やる気・人気・勇気のでる授業
私は常々、授業にはパフォーマンスが必要だと考えている。いわゆるおもしろ、おかしくではない。教壇の前で演じることだ。声、表情、アクション、板書、語りかけ、アイコンタクト等外的要素と同時に、内的要素である教科書の中からネタを探し、生徒に興味ある話題と教科内容を結びつける工夫が必要である。教科書をシナリオにすることだ(コラム連載4参照)。また生徒の笑いを引き出すのも動機付けになる。面白い話をし続けると長続きはしない。笑いは緊張と緩和から出てくる。つまり真剣な授業とユーモアのある授業の繰り返しである。変化創出が笑いを作り出す。私は教科書にネタがないときは教科内容と結びつけた話を自分で作り出す。教師は俳優と同時に演出家でもある。わかりやすい授業の追求には大変な努力が要求される。私は教育をサービス産業と考える視点を持っているので、何十年もの授業で飽いたことが一度もないと自信を持って言える。
「教師は魂の演技者である」と再度言いたい。「勉強しろ? 先生 あんたが 勉強せえ」
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