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2007/1 塾ジャーナルより一部抜粋

私塾への回帰 −教えるということの源へ−

 

吉田順一

●プロフィール
1934年高知県生まれ。土佐高等学校卒業後病気静養を経て、1962年麗澤大学外国語学部イギリス語学科卒業。1962年より32年間高知学芸中、高等学校及び併設の高知学芸進学アカデミー(大学受験予備校)にて主に大学受験英語指導に当たる。1992年から6年間、土佐高校の恩師、公文公氏に招聘され公文教育研究会取締役を兼任。1994年から2006年3月まで明徳義塾中、高等学校副校長歴任。現在─勉学に苦しむ親と子─に『自学英語演習』学習法による支援と『難関大学受験』学習法を伝えることに専念する。

 
     

私は、日頃多くの場で私塾教育に携わっておられる先生方にお会いして、お話を伺ったり、また私の小さな教育への考えを伝えさせていただく機会がありますが、その都度、自分の心が洗われる想いがします。

それは、学校という与えられた教育の場が、ややもすると忘れかけようとしている大切なものを想起させ、新鮮な活力を与えてくれるからです。

私塾教育者に脈々と流れているもの──自ら進んで何かを学び求めようとする「自己研修」の意欲──他の何者にも頼らず「自立」して教育に生きるという勇気ある「志」──これらのものに深く感銘するからです。

私塾を率いる先生方の教育にかけるこのような誠意を感得しますと、私は、自分自身が他人(ひと)様に物を教えるという道は、一体いつ、何から、どのようにして始まったのだろうか──という自らの源点を今更のように回想させられます。

そして古希を過ぎた今、教育ということの自分の小さな湧き水を辿ってその源点に還り、そこから学んだささやかなものを少しでも伝えさせていただくことが、ここまで教育の場に生かせていただいていることへの報恩ではなかろうかと、そんな想いに駆られるのです。

寺小屋塾が私を救ってくれた

思い起こしてみますと、50年前となった茫々たる遥かな日、高知の片田舎にある自宅で病気の身体を養いながら、近所の子どもたちを教えることを始めた小さな寺子屋塾に、私の教育の原風景があります。畳の上に裁(た)ち板を並べ、杉板の廊下に黒板をかけただけの教場が今も懐かしく、ありがたく、記憶の中に鮮明に残っています。

昭和28年高等学校卒業の直前、結核を患って勉学を続けられなくなり、爾来6年間ひたすら読書に救いを求める挫折の時を過ごしていました。起き上がって散歩ができるようになった頃、知人に請われて英語や数学を教えるということが始まりました。どの私塾の過程にもあるように塾生の中から多くが進学校に進むようになり、それにつれて塾生も増え、自分一人では到底教えきれなくなってきました。

こうしてこの小さな塾は、私が半ば療養も兼ねて24歳で大学に入学したために、後事をすべて実兄に託し、その兄が身心を捧げて道徳教育を標榜し、並々ならぬ努力を重ねて、後年私立学校(明徳義塾中学・高等学校)となったのでした。

考えてみますと、不安な病気の回復期に、こうして子どもたちに教えるという作業があったからこそ病想念から離れ、そのおかげで、多感な時代の空漠感から立ち直り、社会に復帰する気力が甦ってきたのでした。あの純真な塾生たちが私を救ってくれたのでした。

時間を忘れ、病も忘れて、懸命になって教えた後の悦びと充足感は、今なお、あの頃のままに私の教育観の源点に生きています。

私塾の先生方は必ずこのような土壌を耕してきており、そこに芽生えた誰にも語り得ない至福の悦びを大事に育んでいることを信じます。辛い日にも教室の机を正して塾生を待つのは、この悦びのもたらす恩寵の力に違いありません。

理論を超えて、教育ということの最も大切な中心は、真正面から真剣に生徒に対した者のみに恵まれる「教えるということの魂のよろこび」であることを、私は未熟な20歳の小さな寺小屋塾で学びました。

教室は厳粛な学びの場

教育は、教室でのみなされるものでは決してありませんが、その原動力となるこの魂の愉悦は教室という時間と空間の現場から、より生命を持ったものとして生まれるものであると考えています。

このことを私は「教室至上主義」と称えて、教室がいかに大事であるかを伝え続けてきました。教室で先生が真面目に、真剣に教える姿そのものは、百の言葉で教えることにも勝る生徒への徳育の一つともなります。教師は教室で教える作業の中でこそ、教育の本質を垣間見、指導技術への直感が働き、さらに深まると一種の啓示を感じる時があるに違いありません。

教室で始まるこのような一連のプロセスを経て、教育とはという哲学が自分のものとなり、教育活動への信念が確かなものとなるのではなかろうかと考えています。

また、このところ基礎学力の低下ということがしきりに問われてきており、政府の召集した教育再生会議の中核となるテーマは学力向上となっていると聞きます。私はこのことについては基礎学力の以前に、その基礎学力をつける基となる「基幹学力(能力)」をつけることが先決であり、必須のものであることを、教室現場で充分に検証してきました。

これは──授業時間中は一切私語をしない。先生の話を集中して聞く。ノートはきちんととる──というごくわかりやすい具体的なことから始める、平易な徳目を身につけさす、身心の躾を徹底するということです。教室を厳粛な学びの場とすることは、教室至上主義の要諦の一つです。このように考えますと、当然教える者にも「基幹教育力」が不可欠のものとなってきます。これは初めにも返りますが、教室の中に培われる、教えることの魂のよろこびという「感性」に他なりません。教科についての知識・技術。それらを理解させる工夫・努力・生徒の教師への信頼──という教師の基礎教育力は、この教師の基幹教育力である感性の基盤の上で、真の実効力をもつものとなってきます。

― 一部抜粋 ―

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