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2004/7 塾ジャーナルより一部抜粋

(悠々教育論 6) 自由とは多様性のことだ

森 毅 (もり つよし)
京都の三高(現在の京都大学総合人間学部)から、東京大学理学部数学科を卒業。北海道大学理学部助手、京都大学教育部助教授を経て教授。1991年に定年退官。京都大学名誉教授。以後、フリーの評論家として、テレビ、ラジオや雑誌、新聞などで、文化・社会一般について批評活動。
著書約100冊:「ぼけとはモダニズムのこっちゃ」(青土社)・「自由を生きる」(東京新聞社)・「東大が倒産する日」(旺文社)・「社交主義でいこか」(青土社)・「ええかげん社交術」(角川書店)・「21世紀の歩き方」(青土社)などがある。
 

統一から多様性へ−現代は価値意識の変革が必要

 教育について、もっと一般的には日本の文化の流れについて、何より考えねばならぬことは、自由と多様性の問題と思っている。今までは統一に価値があったのが、多様性へ価値意識をずらす時期と思うからである。学校の校長さんなどには、いまだに「全校一丸となって」だの「一致結束」だのを口にしたがる人が多いが、多様なものを管理できるのが本来の管理能力。権限も責任も校長にかかろうとしている時代だけに、管理の根本原理を考え直す時期だろう。

 もちろんのことに、旧来の統一の価値を守りたがる人やら、多様性の価値を試みる人やら、いろいろあるのが多様性でもある。その双方があるのが現代。

 このごろの学校では、変わった先生に出会うことが少なくなった。昔だって、それほど多くはなかったが、おもしろい先生はたいてい、戦後の混乱期に「デモシカ先生」と呼ばれた人たちだった。学校に比べると、塾や予備校の方が変わった先生が多いが、学生運動くずれを塾が吸収したことが関係していると思う。

 京大にいたころ、学生の間で出身高校の話はあまり出ないのに、予備校の話だと盛り上がるのに気付いた。塾の先生になるのに教員免許はいらないし、雇用も学校に比べて不安定である。生徒にしても、予備校の卒業証書なんて役に立たない。そこにあるのは、実質だけ。このあたりは、制度的安定と文化的実質の多様性との関係として微妙なところだ。

  別に浪人をすすめることもあるまい。それよりは、入学してから留年する方が、はるかに自由で可能性も増える。それにしても、世間では浪人や留年をマイナスに考えすぎると思う。大急ぎで学校制度を通過したぼくが言っても説得力がないかもしれぬが、これもまた、急いで進学するのもゆっくり進むのも、双方があるのが多様性というもの。

  自由とは何かについては、それこそ多様な考えがあるだろうが、ぼくは何より多様性の保障と考えている。そして、現在の教育の課題としても、多様性の問題を第一義と考えている。

多様性のコントロールが大切で、現状固定化は衰弱をもたらすだけ

 難民条約を批准している「先進国」のなかで、日本は際立って難民が少ない。これは人権問題とか、労働力問題とかよりは、文化の多様性の問題と思う。文化という生態系でも、単一化すると生態系として衰弱するという法則があるようだ。

  文化史を眺めても、17世紀のオランダまで戻らずとも、20世紀の北欧やスイスで、亡命者の存在が文化を豊かにしてきた。何より現代の文化大国アメリカの強さは亡命者にあるし、20世紀文学史はヨーロッパでもアメリカでも、亡命者なしには語れない。

  なお、エコロジストが、外来種によって固有生態系が崩れると言うのは納得できない。草や木でも、虫や獣でも、日本の固有種なんてあまりなくて、起源はたいてい外来種。元をたどれば人種だってそうである。問題は急激な変化をコントロールすること。多様性のコントロールこそが管理であって、現状固定化は衰弱をもたらすだけ。

  教育を問題にするからには、この文化生態系のコントロールが課題なのであって、復古や改革を一方的に議論しても仕方あるまい。そのバランスを考えるからコントロール。

 でも、それがそれほど簡単とは思わない。今まで、正しい方向を定めて、それを一直線に進めてきた学校には、「正しさ」を求める体質が身についている。そして、その「正しさ」で1つにまとめたがる。いろいろあっての生態系のバランスのほうが豊かなのだが、それに慣れていない。昔はもっと、変人の校長などがいたものだが。もっとも、首相や知事が変人だといばっているから、風向きが変わっているのかもしれない。ノーベル賞学者だって、偉人というより変人ということで人気があった。

教育改革に必要なことは、自由と多様性の哲学を自由に多様に語ること

 多分、時代の流れは、均質な生産よりは多様性を生かす方向に向かっていると思う。ものづくりでもそうだが、情報産業では特にそちらが求められる。教育も一種のサービス産業だが、道路や郵政などの流れも、均質性を主張するのは守旧派に見られる。人権問題でも、ノーマリゼーションの流れは平等均質と少し違う。地方分権の流れも、全国均質とはまいるまい。しかし、均質より多様性というのに、日本はあまり慣れていない。

  戦後の学校や塾だって、均質なマニュアルの整備に力を尽くしてきた。個性化が叫ばれることがあっても、個性化のマニュアルを求めたがるという珍妙さ。指導というのが、とかく指導者の計画に当てはめることと考えられて、指導の枠からはずれるのをバランスよくはみだしを作ることとは考えられていない。文化というものには、1つにまとまると衰えるという奇妙な性格があることに気付くときだろう。

  もっともぼくは、教育について慨嘆したりするのは好まない。品行がどうとか、学力がどうとか、それはアプレ(戦後派)のぼくたち自身がさんざんに言われてきたことだし、それでもなんとかなってきたことは、戦後日本の歴史が証明している。むしろ、大人の社会がうまくいっていないことの不満を、子どもに向けているだけのような気さえする。

  そもそも、親や教師がちっとも賢くなろうとせずに、子どもを賢くしようなんて無理な話である。自分ひとりで賢くなるのは大変だし、ひとりでは楽しくないので、まあ一緒に楽しみましょうよ。教育というのはその程度のものだと考えている。それに、教育改革を口にする人が哲学を避けたがるのは、自分に哲学がないというだけの話ではないのか。いま必要なことは、自由と多様性の哲学を、それこそ自由に多様に語ることだと思う。

多様性の良さは自由にあり−そこから可能性が生まれる

 このことは、正しい結論を求めることではない。文化というものは、正しさでまとまるよりは、流れのなかで生まれるものと思うからだ。この点で、高度成長期の学生たちは、均質な安定志向に飽きて、少なくとも心のなかでは多様性を望んでいたものだが、不況と言われるようになると、未来の不安定に脅えて均質の安定を望んでいるかに見える。ここでもぼくは心配していない。均質の安定と多様性の不安定でバランスをとっているだけのことと思っている。人間は、矛盾した方向性を持つことでバランスをとる

  教育の問題については、塾の多様性にもっと目を向けてよい。大きいのもあれば、小さいのもある。いつのまにか生まれて、いつのまにか消える。文化という生態系だって、本来が不安定な多様性によって成立しているものだ。「塾を学校に」という考えの人もいるかもしれぬが、ぼくとしては、塾は学校にだけはならないでほしい。教科書も指導要領も関係ないのだから、出版文化と結びつく方向もある。出版産業のほうも、大きいのも小さいのもあるし、生まれたり消えたりしている。

  多様性のどこがよいかと言うなら、そちらの方が、自由だからである。そして、いろいろな可能性が生まれる。その分だけ不安定なのは仕方のないこと。

 
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