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2007/1 塾ジャーナルより一部抜粋

清い心の眼を

 

小見山健次

●プロフィール
建築家。群馬県渋川市生まれ。東京電機大学工学部建築学科・阿久井喜孝研究室卒。株式会社エムロード環境造形研究所主宰。独立行政法人中小機構・商店街活性化シニアアドバイザー。主な著書に「1級建築士受験・設計製図の進め方」(彰国社)/「専門学校・専門校の設計」(建築資料研究社)。家づくり大賞グランプリ/バリアフリーデザイン大賞/前橋都市景観賞/他受賞多数。

 
     

耐震偽装、履修問題、汚職…と、行政まで巻き込んで、社会全体が今、嘘やごまかしで埋め尽くされています。「いじめ」に至っては、大人たちの歪んだ眼が子どもたちの心の眼まで蝕んでいます。未来を担う子どもたちにはせめて、清い心の眼の素晴らしさを教えてあげなければ。ここでは私の思うさまざまな「眼」の尊さについて話してみたいと思います。

環境を見る眼

私の職業である建築家の話から始めます。人はデザインの優れた美しい建築を見て感動すら覚えますが、そうした建築に限って、その内には深い思索に満ちた建築家の思いが込められているものです。建築家は美しい建築、気持ちの良い建築を創ろうと努力しますが、依頼者が望む条件を満たすための表現は必ずしもひとつとは限りません。そこに建築家のデザインの力が発揮される余地があります。質の高い建築とは依頼者の思いだけに留まらない、デザインの総合的な力が込められた建築です。デザイン力とは昆虫の複眼のようなさまざまな眼で同時にモノを見て表現する力のこと。言葉を換えれば、建築家にとっての依頼者は建築主だけではないと言えることです。その建築をとりまく時代や社会や周囲の自然が求めているものを的確に探し出し、読み取る眼が建築家には必要です。言わば「環境を見る眼」を持って建築を創る力こそが、建築家のデザイン力と言えるのです。

モノの心を見る眼

かつて奈良に西岡常吉という名工がおりました。京都や奈良に建つ国宝級の社寺の改修工事を手がけた現代日本屈指の宮大工ですが、彼は「木の心」と題した著作の中で木を扱うためには、木の性格を読むことから始めなければならないと説いています。木はまっすぐに育ったものばかりではありません。育つ環境の中で曲がってしまった木や大きく伸びられないままに年輪を重ねるしかなかった木など、同じ材種でもその生態はさまざまです。建築は一見まっすぐな木を使って造るのが良い建築になるようにも思えますが、まっすぐだからといって木が育った根っ子の側の上下を逆さまにして使ったり、曲がって育った木を無理矢理まっすぐに削って使ったりすると、かえって歪みが出てしまいます。曲がった木は曲がっていることを生かせる場所に使う。木の表と裏、上下、寒い地域で育ったものか、暖かい地域で育ったものか…等々、木の性格をきちんと見極めて、適材適所に無理なく使うことで百年生きた木は、さらに百年生かせるのだと言います。

そうした木たちのそれぞれが各々の役割を担って「建築」というひとつの世界を構成します。どれひとつも欠けては成り立たない役割を担って組み上げる。大工とはそうした木の「個性」を生かし建築に仕上げる役目のことをいうのだと彼は言います。彼の言うこの「眼」こそは人の教育論にも通じる深い洞察力に満ちた、暖かくて厳しいモノの心を見る眼だと思います。

自己を見る眼

自分の好きなことで生きられる人生は幸せです。自分がつけた優先順位のひとつが生活の中でその順位のままに実践できるという充足感は、生き甲斐や幸せの理想です。知人の美術家夫妻は古びた車に乗り、アルバイトで暮らす質素な生活ぶりですが、互いに制作に掛ける時間だけは徹底していて、あちこちで意欲的な作品発表の場を創り出しています。生活の糧を得る行為とはほど遠い“仕事”を中心にした生活ですが、慎ましいとはいえ夫妻の生活は実に楽しそうで本当に生き生きとしています。こうした生活への情熱は夫妻共に「自分を満足させるための眼」から湧き出ているようです。そして互いの暖かい眼差しが、そんな生活を豊かな生き甲斐のある生き方の場に変えています。夫妻は互いに「自己を見る眼」をしっかりと認め合い、尊重し合い、互いの思いを護り続けているのです。

人を見る眼

昨年来、学校での「いじめ」が社会問題になっています。子どもたちに限りませんが、相手の気持ちや状況を思いやることなく発した何気ない言葉で人は簡単に傷つきます。たった一言の言葉が相手の心に深い傷を負わすことはよくあることです。それが悪意に満ちた言葉であることを自ら認めることなく発した〈何気ない言葉〉は最も相手を苦しめます。相手の立場にたった交わりがどこまで考えられているか、これはまさに人を思いやる眼の有り無しの問題です。自分にとって〈悪意ある人〉とは即刻交わることをやめるのがいいに決まっていますが、周囲はそうした人だらけとも言えますから、現実には逃れきれるものではありません。特に学校という社会で、清い眼しか持ち合わせていない子どもたちにとっては最悪です。回避したり、制御したりという処世術すら備わっていません。「そんな相手にはとりあえず相づちを打って適当に…」、と私たち大人はせめて場に応じた処世術を身につけさせようと思う気持ちが頭をもたげます。しかし〈処世術〉などというずるがしこさを早々と大人の眼で子どもに説いていいはずがありません。子どもたちには友人の尊さ、人の心の暖かさや豊かさを純粋に解らせてあげたい。自分がこの世界で生きていることの証を正しく健全に自覚出来るように、自分を客観的に正確に見つめられるさまざまな眼を養ってあげたい。社会のモラルが崩れかけた今だからこそ、大人自らが清い心の眼をもう一度養うべきです。子どもたちにそうした眼の持ち方を伝えるのは私たち大人の役目なのですから。

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