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2006/11 塾ジャーナルより一部抜粋

日本教育者セミナー姫路大会

  2006年9月13日(水)・14日(木) 於 姫路キャッスルホテル
主催 日本教育者セミナー
 
     

学習塾や私学などの民間教育団体が加盟する日本教育者セミナーは、恒例の秋のセミナーを9月13・14日の2日間にわたり開催。東京オリンピック女子バレーボール金メダリストの河西昌枝氏らを講師に招き、「人を育てる」「仕事の原点」といった教育そのものにかかわるテーマで、講演会やパネルディスカッションを行った。全国各地から集まった約70名の参加者は、講師の人生経験の厚みを感じさせる言葉に深くうなずきながら、聴き入っていた。

《第1日目》

セミナー冒頭で挨拶に立った日本教育者セミナーの岡村寛三郎理事長は、自身が本セミナーでの情報交換や助け合いに支えられていると述べ、「日本教育者セミナーに、今後もお力添えいただきたい」と呼びかけた。

続いて、今回のホスト塾「セミナーイノコ」の猪子禮司代表が、「教育そのものの問題を考えたい」とテーマの趣旨説明を行い、「意義ある2日間としていただきたい」と挨拶を述べた。

プログラムの最初は、『生かされている喜び』をテーマに、元フジテレビアナウンサーの松倉悦郎氏が講演。松倉氏はスポーツキャスターとして活躍後、2002年に退職。夫人の実家である浄土真宗本願寺派不動山善教寺の僧侶となった。講演では、アナウンサー時代のさまざまな出会いや、大学時代からの友人で、フジテレビにも同期入社した、故・逸見政孝氏との交友、そして別れを語った。

■人を育む喜び

続いて、『挑戦』と題するドキュメント映画が上映された。これは、「東洋の魔女」と呼ばれたニチボー貝塚バレーボールチームの練習を記録したもの。

「回転レシーブ」の練習では、監督の手から弾丸のような鋭い球が次々と投げつけられ、選手たちはボールに食らいつくように右へ左へと転がる。なかには、思うようにボールを返せない苛立ちからか、監督につかみかかり、ボールを蹴飛ばす選手も。そこでは、最後まで戦い抜く強さを身につけるため、壮絶な練習が繰り広げられていた。

上映後、ニチボー貝塚のキャプテンを務めた河西昌枝氏が登壇。その若々しさに会場から賞賛の声が上がった。

講演「バレーボールと私の人生」

東京オリンピック女子バレーボール金メダリスト 河西 昌枝 氏

人生を変えた出会い

私が初めてバレーボールを手にしたのは、戦後間もない中学1年のとき。山梨県の田舎でした。高校進学後も一生懸命に練習しましたが、県大会で優勝することもなく、卒業と同時にバレーボールとは別れを告げるはずでした。

ところが高校3年のときに、希望参加の関東大会に出場。2回戦で敗退しましたが、その試合を当時の日本紡績株式会社(ニチボー)足利工場の工場長が見ていたのです。工場長は「バレーは下手だが、背が高い」という理由で、私を採用してくれました。

そのころ私の身長は172cm。9人制バレーボールのネットの高さは2mでしたから、ジャンプしなくとも、手を伸ばせばネットの上に出ました。ニチボーのチームに入ってみると、周りは上手な人ばかり。何もできない私は、ボール拾いに明け暮れていました。それでも「バレーが好き」という気持ちだけは誰にも負けていません。体力づくりのために毎日、近くの渡良瀬川の土手を走っていました。

2年後、チームは大阪府南部の貝塚工場に移り、大松博文監督のもと、新たに「ニチボー貝塚」が結成されました。チーム誕生から1年3ヵ月で、全日本総選手権を制覇。5年後の1958年には、都市対抗・実業団・国体・全日本総合選手権のすべてのタイトルを獲得。そのとき25歳になっていた私は「もうこれ以上、めざすものはない」と、バレーボールをやめるつもりでした。

世界への挑戦

その年の暮れ、日本も世界と足並みを揃えるため、6人制バレーボールへ移行。外国遠征の話も持ち上がりました。「6人制をやれば外国へ行ける!」。そんな動機から、6人制を始めました。しかし、9人制とはルールが異なり、ネットも約20cm高くなりました。日本一の9人制の技術を忘れ、新たに6人制を覚えなければならない。これが1番大変でした。当時は、現在のような情報社会ではありません。私たちは外国から本を取り寄せ、試行錯誤しながら、自分たちの技を磨いていきました。今では当たり前のようになった回転レシーブや変化球サーブもそんな中から生まれました。

1960年、ブラジルで開催された世界選手権大会に出場。旧ソ連に接戦の末に敗れました。その悔しさから、この次は絶対勝つのだと、世界一をめざして、猛練習が始まりました。私たちはアマチュアですから、午前8時から午後4時までは一般社員と同じように仕事をし、その後、深夜0時ごろまで練習を続けました。頭ではなく、身体が自然にボールについていけるようになるまで、何度も何度も同じ練習が繰り返されました。「もうやめたい」「まだやらなきゃ」。そんな葛藤のなかで強い自分を作り上げていく。大松先生の教えは技術の向上とともに、選手たちを人間として鍛え上げていくものでした。

例えば、暑かったから負けたとか、そんな言い訳は通用しません。どのチームも条件は同じ。自分たちにとって不利な条件であれば、その条件のもとで練習を積み重ねればよいのです。大松先生は、冬には北海道旭川の学校の体育館で練習させました。冷たい隙間風が吹き抜け、端の方には雪が積もっていました。寒いところでは、こうすればこうなるんだということを、身体で覚えさせるためです。また昔の体育館ですから、照明設備も十分ではありません。夕暮れになると先生の手から離れるボールが見えなくなる。これは「暗いからボールを上げなくてもいいや」という気持ちがあるからです。そんな気持ちに打ち勝ち、ボールが見えるようになるまで、練習は延々と続けられました。こうした指導のもと、無名だった選手たちは鍛えられていきました。

それはまた、先生との一対一の戦いでもありました。「これでもか」という先生に対して、「なにくそ、どんなボールでも打って来い」と向かっていく。対決があって初めて師弟の関係が生まれるのだと思います。

そして1962年の世界選手権で、旧ソ連を破り優勝。1964年の東京オリンピックでは金メダルを獲得できました。表彰台で私は国旗掲揚を見ながら、ここまで導いてくださった先生方、私がセッターをやると言ったときに「不器用な河西にできるわけない」と言って奮起させてくださった方、すべての人に対し、感謝の気持ちでいっぱいになりました。この金メダルは私たちの力だけで取れたものではなかったのです。人間は自分だけでは生きていけません。家族・友人・周りの人々に感謝しながら生きていきたいと思っています。

この後、映画「てんびんの詩」が上映された。これは、商家に生まれた少年が行商をしながら「商い」の心を知るまでを描いた作品。企業研修ではいま最も人気の高い映画だという。

― 一部抜粋 ―
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