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2006/1 塾ジャーナルより一部抜粋

塾と学校・これからの共存共栄の可能性

小林 弘典
PSコンサルティング・システム 代表。
学習塾経営コンサルタント。PS・コンサルティング・システム代表。学習塾の個別コンサルティングを主業務とするかたわら、塾経営者対象の勉強会なども主宰している。
 

塾の先生が学校にやってくる

昨冬の小春日和のある朝、新聞を拾い読みしていると地方欄のこんな記事が目にとまった。今年4月に開講予定の東京・千代田区立九段中等教育学校について触れたものだ。

――中高一貫校のいま@首都圏/特色づくりに力を注いだ。最大の目玉は予備校や塾との連携。土曜日に講師を派遣してもらい、受験対策に取り組む。業者主催の学力試験を土曜日に実施し、進路指導に役立てる。来年1月には予備校講師を招いた同校の受験者向けの『直前アドバイス』まで開く。(朝日新聞/2005年11月29日朝刊)

その1か月ほど前には、こんな記事も目にした。

――受験手助け村の塾(青森)/東通村は、民間の学習塾から講師を招き、村内の中学3年生を対象に受験勉強のサポートをする「東通村学習塾」(仮称)を22日から始める。村内に学習塾がないため「塾で勉強させたい」とする保護者の要望に応える。(中略)民間の講師2人が英語、数学の2教科を担当し、高校受験に必要な基礎を指導する。教材などは生徒の負担だが、講師への謝礼金は全額村が負担する。(ヨミウリオンライン/2005年10月19日)

公立私立を問わず、高校の土曜授業に予備校教師や塾講師が招かれることはかなり一般的になってきた。だが、オモテにはあまり出ないものの、実は普通の公立の小学校や中学校が現役の塾講師を学校に招き、受験指導や補習指導を直接担当してもらっているという話も珍しくなくなってきている。

40年前に出合った塾

わたしが塾と初めて出合ったのは中学校3年になったばかりのころだった。昭和40年(1965年)だったから、ちょうど40年ほど前のことになる。

塾は、自宅から数キロ離れた町の中心の、鉄道の駅から数分のところにあった。民家を下宿屋に改造したわりと大きな木造の建物の縁側から中に入り、よく磨かれた階段を昇る。突き当たりの襖を開けると、狭い畳の部屋にダクアウトのベンチのような座り机が3台ずつ2列に並んでいた。正面の壁に横1m80、縦90の黒板。そこが人口3万人の町でおそらくは唯一の「塾」だった。

経営していたのは隣町にある公立高校の教師だった。もちろん「モグリ」のはずである。塾名はあったのかどうか。

わたしはここに週2回、火曜と土曜の午後7時から9時まで、自転車を飛ばして出かけていった。夏休みには、朝5時からの授業にも出た。1学期のうちは「デンスケ」というあだ名で呼ばれていたこの教師が教える英語だけ、2学期からはどこからか女子大生が来てときどき数学も教えてくれるようになっていた。月謝は確か2,000円。新聞購読料が580円、野球の試合の後、みんなで飛び込んだ銭湯代が28円の時代である。
都会のことは知らないが、当時、田舎の塾といえばこんなものではなかっただろうか。

学校からの「無視」と「反発」

周知のように戦前にも塾はあった。すでに明治の初年には、軍学校に進むための塾があったと記録にも残っている。しかし、今の形の塾ができたのはやはり戦後であろう。草創期は昭和の20年代後半(1950年代前半)、世間に知られ出したのは団塊の世代が高校進学を控えた昭和35年(1960年)前後のことである。

それから約50年が経過した。この間、学校が塾をどう見ていたか、塾が教員たちからどう思われていたかを追ってみると面白い。

最初はもちろん「無視」であった。東京とその近郊のおもに中学受験の塾が、口さがない連中の揶揄と非難の対象になったことはある。が、大半を占める、わたしが通っていたような高校受験の塾は、学校からも教員たちからもほとんど相手にされていなかった。「見て見ぬふりをしていた」というのが正解なのかもしれない。
次に来たのが「反発」だった。

昭和50年代(1975年)初頭にはやった「乱塾時代」という流行語を覚えている方は多いだろう。毎日新聞の連載記事「子供の森」から生まれた言葉だ。手許に同社社会部が、ほぼ100回に渡るこの連載に手を入れて出版した『進学塾リポート――乱塾時代』(サイマル出版会、1977)という本がある。まえがきにこうある。

――学習塾について本格的に取材をはじめたのは、社会部の記者の一人が夜の湘南電車で塾から自宅に帰る小学生の姿を目撃したことがきっかけだった。鎌倉市から片道1時間半もかけて東京都内の進学塾に通っているのだという。「(前略)その子たちが気の毒になっちゃったよ」その記者の言葉に、教育問題を担当していた同僚が刺激され、さっそく学習塾ブームについての取材をはじめた。(昭和)50年9月のことである。

おわかりのとおり連載が最初そ上に載せたのは中学受験塾であった。それが高校受験塾をも含めた塾一般への批判に飛び火して、やがて一大社会問題に発展していく。おりから当時の文部省が「児童生徒の学校外学習活動に関する実態調査」という調査を実施して、小学校高学年の通塾率が19・7%、中学生が38・0%もあると発表したのも効いた(1977年3月)。

一転、「協力要請」へ

こうした反発の時代が25年続いたあと、やがて冒頭の現在がやってくる。敵意むき出しの反発から、一転して塾講師の招聘へ。

ところで、この手のひらを返したような態度の変化は一体、なにゆえに起こったのだろう。理由は輻輳していて断定しがたいが、次の二つの事実が絡んでいることだけは確かだと思われる。

(1) 文部省から「通学区域制度の弾力的運用について」という通知が出された1997年を境に学校選択制(=学区の自由化)が広がり、それに伴って学校現場にも「学校評価」「教員評価」「情報公開」という市場原理が導入されはじめたこと。同省の発表によれば、2004年11月時点で小学校段階での学校選択制を実施している自治体は全体の8.8%、中学校段階では11・1%ある(検討中は小学校5.8%、中学校9.5%)。

(2) 学力向上という面では学校教員よりも塾講師の能力が上という評価が定着したこと。例えば内閣府が2005年9月に行った調査で「子どもの学力の向上という面ではどちらの方が優れているとお感じになりますか」という質問への回答に、「塾・予備校」、「どちらかといえば塾・予備校」と答えた保護者が全体の70・1%にのぼる一方、「学校」、「どちらかといえば学校」と答えた保護者はわずか4.3%に留まった。
言ってしまえば身もふたもないが、要するに学校は、保護者=消費者が望む「進学指導」という面でも「学力低下の阻止」という面でも自校や自校に属する教員の評価を上げなければならず、そのためにはその道に長けた塾講師の力を借りるよりほかはない。つまりは「背に腹は替えられない」という状況に追い詰められたからこそ、塾が学校に入り込む余地が生まれたとみるのが自然であろう。

ゼネコンと下請けの共存

理由はともあれ、学校が塾を無視していた時代から反発の時代を経て、今や学校が塾に協力を要請しそれに塾が応える時代を迎えた。子どもたちのことを考えると、まことにうれしい変化といってよい。営々と小さな努力を積み重ねてきた塾の側も、またプライドを捨てて胸襟を開いた学校の側も、大いに賞賛されてしかるべきであろう。

だが、あえて乱暴なたとえを用いると、この教育ゼネコンとその下請け・孫請けのような協力関係が、はたして子どもたちにとって、学校にとって、塾にとって、本当に幸福な共存の形なのだろうか。

残念ながらわたしには、どうしてもそうは思えない。
ならば、どのような形が望ましいのか。

それを考える際にヒントになる二つの提言がある。一つは小淵内閣の諮問機関だった「21世紀日本の構想」懇談会が2001年1月に提出した報告書「日本のフロンティアは日本の中にある」であり、もう一つはそれより少し前の1995年4月、経済同友会が発表した「学校から『合校』へ」という文書である。一節ずつ引こう。

――広義の教育における国の役割は二つある。一つは、主権者や社会の構成員として生活していく上で必要な知識や能力を身につけることを義務づけるものであり、もう一つは、自由な個人が自己実現の手段を身につけることへのサービスである。つまり、「義務として強制する教育」と「サービスとして行う教育」である。(中略)21世紀にあっては、これまで混同されてきた二つの教育を峻別し、「義務としての教育」は最小限のものとして厳正かつ強力に行う一方、「サービスとしての教育」は市場の役割にゆだね、国はあくまでも間接的な支援を行うことにすべきである。

――新しい学校のコンセプトとして、われわれが提唱するのは「合校(がっこう)」である。この「合校」は、(中略)中核となる「学校(基礎・基本教室)」の周辺に「自由教室」と「体験教室」を配置して、これらがネットワークの形で緩やかに統合されたものである。

双方ともに学校を徹底的にスリム化した上で、ナショナルスタンダードとでもいうべき基礎基本の教授だけを現在の学校の守備範囲とし、自余は民間にゆだねるべきだと主張している。この考え方をわたしは支持したい。
堅苦しい申しようで恐縮だが、近代国家における学校は元来、「国民」を育てるための組織であった。それは文字通り「公」教育のための機関であり、いつの場合も常に「私」より「公」が優先されることを教え込むための道具であった。

一方、塾はといえば、これは徹頭徹尾「私」のための機関、個々人が私的な幸福を追求するための道具以外の何物でもない。目的とするものが始めから異なっているのである。
だからといってそれは、どちらが優れているとか、どちらが大事だとか、比べられるものでもない。そもそも民主主義のもとで生活する市民はすべて、公的な存在であると同時に私的な存在でもあるという二面性を持っている。従って民主主義のもとでの教育は、公益・私益、それぞれに資する二つの教育機関が並存して初めて完結すると考えるべきなのである。

学校は学校の役割を果たす、塾は塾の役割を果たす。それぞれが己の役割を立派に果たすなかで、子どもたちがバランスの取れた市民に成長できるよう支援し合う。遠い将来かもしれないが、こうした形で学校と塾とが共存できる時代の来ることを、わたしは切に願っている。

 
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