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中学・高校受験:学びネット

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2005/1 塾ジャーナルより一部抜粋

揺れる学校制度

  PSコンサルティングシステムス代表  
     
 
公教育=学校がいま、揺れています。小中高等学校に導入されたものの内外からの批判にさらされて身動きのとれない「ゆとり教育」の問題、財政負担の削減と教育・研究の効率化を求めて独立行政法人化させられた国立大学・大学院の問題、当該自治体の関係者以外には手の届かないところで例外に例外を生み出す教育特区の問題、戦後60年の教育を規定してきた教育基本法の改正の問題――その他様々な分野に関連して矢継ぎ早に繰り出される改革案に加えて、昨年秋には小泉三位一体構想に基づく義務教育費国庫負担金の撤廃問題も浮上しました。

これから先、学校はどうなっていくのか。子どもを持つ親のみならず誰にとっても学校の将来は気になるところですが、とりわけ学習塾関係者にとって、この問題はより深刻かつ切実な問題と言わざるを得ないでしょう。

周知のように現在の形の塾は戦後、団塊の世代が高校入試を控えた1950年代に生まれ、以来50数年、学校に寄り添って生きてきました。いろいろな見方はありますが、ある意味で学校と労苦・盛衰をともにしてきたと言っても過言ではないかもしれません。その学校が大きく変わるとすれば、塾もまた大きく変わらざるを得ない。学校は塾の運命を左右する、唯一ではないにしても最大の影響力を持ったパラメータであり、学校の将来を無視して塾の将来を考えることはできないからです。

学校はどう変わるのか

それではこれから先、学校は一体、どう変わっていくのでしょう。

結論から先に言ってしまえば、近い将来学校は、少数の英才を養成する一握りの機関と、その他もろもろのほどほどの人材を作り出す大多数の機関とに二分されるであろうと、私は考えています。

そもそも公教育制度=学校制度の改革が、なぜいま行われなければならなかったのかをお考えいただければ、私がこう申し上げる理由がおわかりになるでしょう。
過去には確かに七五三と呼ばれた落ちこぼれの問題もありました。受験戦争の問題もありました。いじめの問題もありました。また、校内暴力の問題も、不登校の問題も、高校中退の問題もありました。最近では学級崩壊の問題もありました。

しかし、現在の改革は必ずしも、そうしたいわば末梢的な問題を解決するために行われているわけではありません。少しばかり固い言葉を使えば、時代の変遷とともに日本という国家・社会が求める人材の内容が変化した、つまりはいま、国家・社会にとって以前とは別の種類の人材が必要になったがゆえに行われているのです。

改めて言うまでもなく、あらゆる制度は時々の社会的要請から生まれ、社会的要請に従って変化し、社会的要請がなくなったとき自然に消滅していくものです。学校制度もまたその例外ではありません。

近代公教育制度=学校制度は産業革命とともに誕生しました。産業革命後の近代社会、すなわち工業化された産業社会とは、一言でいうと、ヒトに代わって機械がモノを生産する社会、機械による生産が人々の経済生活の中枢を担う社会です。そしてそれゆえに、そこで求められる人材は、規格化されて大量に生み出された機械を操作するために準備されたマニュアルをキチンと読みこなし、正常に機械を動かせる人材にほかなりません。産業社会が求めたのは、こうした過不足のない一定水準の知的レベルを備えた大量の人材であり、近代公教育制度はそうした画一的な人材を最も効率的かつ大規模に供給するために、近代国家が考え出した極めて巧妙な装置であったというわけです。

画一から英才の育成へ 

ところが、時代はいま、変わりつつあります。おそらくはバブルの前後、80年代の後半から90年代初頭が一つのターニングポイントなのでしょうが、日本社会は「産業社会」から「ポスト産業社会」、いわゆる情報化社会、ソフト社会に向かって急旋回を始めました。
時代が変われば求められる人材も変わります。

もちろん私たちには、ポスト産業社会がどんな社会なのか、そこでどんな人材が必要とされるのか、正確なところはわかりません。それは江戸時代末期に生きた人々が、昭和の高度成長期とそれを担った人々を想像しえなかったのと同様です。

しかし少なくとも、80年代初頭までの「一定水準の知的レベルを備えた大量の人材」に代わって、差し当たりはとくに理数系の分野で「世界の最高水準を超える人材」が「一定数」、必要とされるようになることだけは見当がつきます。

唐突ですが、皆さんがお使いになっているパソコンにどんなOS(基本ソフト)が搭載されているのかはご存知でしょう。アップル社のマック以外のパソコンは、ほとんどすべてウィンドウズのはずです。コンピュータは情報化社会への入口とも言うべきものですが、それを動かすOS市場の85%は実はウィンドウズで占められている。ということは、これから先ずっと、誰もがコンピュータを1台購入するごとに米国のマイクロソフト社にいくばくかの年貢を納めなければならないわけで、それは米国以外の国家・社会にとって莫大な経済的損失です。のみならず、モノが情報処理の中心機能を果たす道具だけにセキュリティや危機管理の問題にも配慮しなければならない。

ご承知のようにこのウィンドウズは米国のビル・ゲイツが1人で考え出したものです。 
インターネットやイントラネットで標準的に用いられているドキュメントシステムのWWWも、英国のティム・バーナードリーが1人で考え出したものです。
ポスト産業社会という社会が、様々な分野でこういう一握りの英才たちが世界をリードする社会であるならば、国は自前でこういう人材を養成しなければなりません。さもなければ経済をはじめ、あらゆる意味で国がモタナイ。先に私が「近い将来学校は、少数の英才を養成する一握りの機関と、その他もろもろのほどほどの人材を作り出す大多数の機関とに二分されるであろう」と述べたうちの、前段の意味がおわかりいただけるでしょう。

代償はレベルの引き下げ

ところで、英才の養成にはそれなりのコストがかかります。では、それをどこから捻出するのか。

平たく言えば、目をつけられたのがこれまでの「一定水準の知的レベルを備えた大量の人材」です。この「一定水準」を少しだけ下げることによって費用を浮かせ、その費用をつぎ込んで「英才育成」を図る。

おそらく国は、少なくとも初中等教育に関してはもともと、これまでの「一定水準の知的レベル」が高きに過ぎるという認識を持っていたのでしょう。でなければ、学習内容を削減しようという発想が生まれてくるわけがありません。それに間違いなく、従来の知識中心教育で育て上げた人材が、どういうところかよくわからないポスト産業社会で通用するかどうかという疑問もあった。だからこそ、学習内容を削減し、併せて学力の意味を「知識や技能はもちろんのこと、これに加えて、学ぶ意欲や自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題解決する資質や能力などまで含めたもの」(文部科学省「確かな学力」)と都合よく読み替え、そうすることで学習時間を削減してコストを捻出するのが得策と判断したわけです。

繰り返しますと、おおよそ80年代半ばでのわが国の学校制度は、かなり高い知的水準に達した国民を一律に、大量に輩出することを目標にしていました。それを、大方の水準が多少低下する犠牲を払ってでも一部、とくに理数系の一部を超世界最高水準にまで引き上げることを目標とする教育に変えていく。これが目下進んでいる学校制度改革の本質であり、それはわが国を含めた先進諸国がハード面の製造業を中心とした「産業時代」からソフト面・サービス面を中心とした「ポスト産業時代」に移行していく中、そうした時代にふさわしい人材を育てなければ国がモタナイという切羽詰った判断からくる、ごくごく当然の帰結であったと解釈してよいのではないかと思います。

進学塾とおけいこ塾

では、学校がこうした方向、一方において少数の英才を養成する一握りの機関と、他方においてその他もろもろのほどほどの人材を作り出す大多数の機関とに二分される方向で定着すれば、塾にはどういう影響が出てくるのでしょう。
私は、塾もまた大きく分けて2つの方向に進んでいくと考えています。

1つは従来の進学塾型を踏襲するもの。

学校が2つのタイプに分かれていけば、子どもたちも割合早い年齢段階で目標設定を強いられることになりますが、彼らのうち比較的学力水準の高いものや特に高学歴家庭の子どもたちは「超世界最高水準コース」へエントリーする資格を与えてくれる学校を目指すことになるでしょう。具体的には、有名私立小中学校、私立・公立の中高一貫校、教育特区の特色校、公立進学指導重点校、スーパーサイエンスハイスクール、21世紀COEプログラム大学院を擁する大学、プロフェッショナル・スクールなどなどですが、こうした学校への進学は当然、それほど容易ではありません。従って進学塾に対する需要はかなりの規模で残っていくと思われます。

もう1つは、おけいこ塾・カルチャー塾型。

こちらは「超世界最高水準コース」エントリー校への進学競争から外れた子どもたちが対象です。もちろんこの進学競争を断念したからといって、子どもたちが進学しないというわけではありません。が、どうしても学校での成績向上に向けての意欲はそがれる。必要性を感じないからです。しかし、だからといって、学校での勉強以外のことに対する好奇心がなくなるわけではなく、語学、趣味、おけいこごとや資格取得などへの関心はそれ相応に高まるはずで、こうした需要にこたえる施設も必要になってくるでしょう。現在の塾の一部はこういう方向に進んでいくのではないかと思われます。
これまで世界の先進諸国ではGDPの5%の予算を子どもの教育に投ずるのが当然とされてきました。ところが、わが国の教育予算はというとじつに3%内外。事実上、残りの2%を家庭が民間に投ずることで日本の教育水準は保たれてきたと言ってよいでしょう。 
どんなに学校改革が進もうと、幸か不幸か、これから先もこの状態が変わるとは思えません。塾は国家・社会の教育を支えている、学校が揺れているいま、塾が再確認しなければならないのはこのことではないでしょうか。

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