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2004/5 塾ジャーナルより一部抜粋

(悠々教育論 5) 塾産業の未来

森 毅 (もり つよし)
京都の三高(現在の京都大学総合人間学部)から、東京大学理学部数学科を卒業。北海道大学理学部助手、京都大学教育部助教授を経て教授。1991年に定年退官。京都大学名誉教授。以後、フリーの評論家として、テレビ、ラジオや雑誌、新聞などで、文化・社会一般について批評活動。
著書約100冊:「ぼけとはモダニズムのこっちゃ」(青土社)・「自由を生きる」(東京新聞社)・「東大が倒産する日」(旺文社)・「社交主義でいこか」(青土社)・「ええかげん社交術」(角川書店)・「21世紀の歩き方」(青土社)などがある。
 

半世紀というスパンで学校と塾を考える

 半世紀後に、塾はどうなっているだろうか。そんなことを考えてみることがある。
半世紀というのは、ちょうどよい寸法である。まず、ぼく自身については、そのころは生きていない。これを読んでいるあなただって、生きているかどうかわからぬ。ただし、今塾で学んでいる子どもたちの大部分は、まだ生きているだろう。未来を考えるのに半世紀というのはよい寸法。教育について考えるのにも、半世紀後の未来という距離を頭に置くのはよいことだ。

 もちろんのことに、半世紀後の未来を予測しても、ほとんど無理。10年後や20年後を考えることはあっても、それだって当たらぬことが多い。「国家百年の計」などと言う人がいるが、百年後に「国家」がどうなっているかもわからない。例えば、半世紀後の日本が、国際的多民族国家になっていても、ぼくは驚かない。もっとも、そのころは生きていないのだから、驚きようもないけれど。ただ、そのころも生きている今の子どもについては、驚かないようにしてほしい。

 だから、塾の経営を考えるのには、半世紀後のことを考えても直接的には役に立たない。たいていは、10年かそこらの未来を考えて予測を立てるものだろう。

 でもぼくは、長い未来の中で考えるのはよいことだと思っている。例えば、地球は長期的には冷却化しているに決まっているが、それは5千年とか1万年とかの話であって、50年とか百年とかで問題になっているのは、温暖化の方。しかし温暖化を考えるのにも、冷却化を頭に置いて考える方が、考えにふくらみが生まれる。

 現在のところ、「学校から塾へ」、もっと大きくは「官から民へ」と時代の風が流れているが、1世紀前は逆だったから、半世紀後に「塾から学校へ」「民から官へ」の流れが生まれる可能性もある。

 しかしぼくは、もっと大きな流れとしては、「学校から塾へ」「官から民へ」を見た方がよいと思っている。理由は、日本に限ってみても、塾の歴史は千年以上あるが、学校の歴史は百年余りだから、塾の歴史の中で学校の歴史を考えた方がおさまりがよいから。そして、国の形がどうあっても、そこに人が暮らしているはずだから、官よりは民をベースに考えた方がいいと思う。これはべつに、民主主義とか人民主権とかいったイデオロギーの問題ではなくて、単にものを考えるためのスキームとしての利便性に過ぎぬ。学校教育といった制度が絶対とは思えない。

ビジネスとしての塾成立の難しさ

 そこでさしあたり、〈塾の自立〉といったキーワードから考えてみたい。今のところ、塾は過度に学校制度に寄生しているように思えるから。

 江戸時代まで戻らなくとも、明治以降だって、いろいろな人の伝記を読むと、塾の先生や友人に大きな影響を受けた話がよく出てくる。問題なことは、そうした塾がビジネスとして成立しにくくなって、伝記から塾が消えそうなこと。音楽や美術では、音楽大学や美術大学のような制度以上に、塾の話がよく出てくるが、それは外部にコンクールのような制度があるからかもしれない。学校の美術や音楽の成績を上げるために塾に通う子はあまりいないだろう。スポーツの塾もいくらかそうである。広中平祐が数学者のための塾を考えたが、これだって数学オリンピックのような学校外制度の存在が意味を持っていたかもしれない。

 政治家の世界では、今でも東大卒とか早大卒とか慶大卒とかが言われるが、このごろ松下政経塾の名をよく聞く。ジャーナリズムの世界はどうかしら。この点では、革新系の方が自分の政党や自分の組合にこだわりすぎて、閉じてしまったように思う。おそらく、学生運動が塾の機能を担ってきたのだろう。ベ平連出身のライターなんてよく聞く。

 むしろ、芸能の世界が、塾としてよく機能しているかもしれない。もともと、芸能といったものは制度の枠になじまぬところがあるから。文学学校出身の芥川賞作家なんてのもいることはいるが、それだって学校というよりは塾と考えた方がよい。

エリート育成塾―自前の価値創出の必要性

 こうしたことは、エリート育成のようだが、確かにエリート育成は学校制度になじまない。東大なんて、大きすぎる。ケンブリッジでエリートが育ったのは、秘密サークルの使徒団からだった。ぼくが、京大の教授をしていたころは、学生の百人に1人ぐらいは勝手にエリートになってくれて、大学は残りの99人の面倒を見ていればよかった。

 しかし、学生に学校依存度が強くなって、勝手にエリートになれとも言えなくなったし、学生運動も下火になって、塾機能を代行するものも少ない。

 半世紀後には、エリート不在がもっと深刻になるかもしれぬ。そこでベンチャー・ビジネスとして、ごく少人数で、学校の枠を超えてのエリート塾が繁栄するかもしれぬ。東大出身なんて数が多すぎる、うちの塾で学んでいるのがエリートですよ。フランスで言うなら学校としてのパリ大学と、塾としてのグランゼコールの併立方式。

 こうしたものは、入試を目的に生徒の数をこなすのに向かぬが、入試を通して学校に価値を委ねるのが半世紀もつかどうかわからぬから、塾が自前の価値を創出するよりあるまい。

学校制度の枠を離れて考えよう

 いっそ、本格的な入試産業に転進する道もあり得るし、最近はその萌芽も見えかかっている。これは、受験生を相手に合格させるのではなくて、入試をまるごと代行してしまうのである。入試というのは、大学なども苦労はしているが限界がある。それよりは、大学からの注文を聞いて、入試をまるごと代行する業者が外部にあってよい。もちろん、注文に応じきれなくなると、外注を打ち切られるから、入試産業として競合する。

 この業種は、今後はいろいろと発展しそうだ。入学試験でなくて、入社試験の代行業があってよい。大学の成績よりも、入社試験の成績が重視されるのは当然。もちろんのことに、業種に応じて多様な試験が要求されるから、需要はいくらでもある。

 そして最終的には、国家試験の民営化とつながるかもしれない。今のところ、医師や弁護士になるのに国家試験があるが、それがよいものとは、とても思えない。大体、そうした専門職の適性を国家が保証するというのは、国家にとっても無理だと思う。それよりは、いくつかの民間保証機関があって、そこから権威付けられる方が、柔軟性も持てて合理的である。

 EUが免許制のような国家的制度からいつ脱け出すかに興味を持っている。それは、ドイツとフランスとイタリアとイギリスに共通な医師や弁護士制度ってなんだろうと思うから。それでも、大学というものが生まれて以来の長い歴史があることだし、なんとかなると思うが、それは官ではなくて民によるものだろう。

 つまり、半世紀後の世界を考えるということは、国家に依存した学校制度の枠を離れて考えるということでもある。これはなにも、学校解体のような革命的なことではありません。その目的は、単に自分の頭を柔らかくするため。そして、塾が学校制度によらない自前の価値を考えるため。学校制度がどうなろうとも、塾がなくては困る。

 
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