半世紀というスパンで学校と塾を考える
半世紀後に、塾はどうなっているだろうか。そんなことを考えてみることがある。
半世紀というのは、ちょうどよい寸法である。まず、ぼく自身については、そのころは生きていない。これを読んでいるあなただって、生きているかどうかわからぬ。ただし、今塾で学んでいる子どもたちの大部分は、まだ生きているだろう。未来を考えるのに半世紀というのはよい寸法。教育について考えるのにも、半世紀後の未来という距離を頭に置くのはよいことだ。
もちろんのことに、半世紀後の未来を予測しても、ほとんど無理。10年後や20年後を考えることはあっても、それだって当たらぬことが多い。「国家百年の計」などと言う人がいるが、百年後に「国家」がどうなっているかもわからない。例えば、半世紀後の日本が、国際的多民族国家になっていても、ぼくは驚かない。もっとも、そのころは生きていないのだから、驚きようもないけれど。ただ、そのころも生きている今の子どもについては、驚かないようにしてほしい。
だから、塾の経営を考えるのには、半世紀後のことを考えても直接的には役に立たない。たいていは、10年かそこらの未来を考えて予測を立てるものだろう。
でもぼくは、長い未来の中で考えるのはよいことだと思っている。例えば、地球は長期的には冷却化しているに決まっているが、それは5千年とか1万年とかの話であって、50年とか百年とかで問題になっているのは、温暖化の方。しかし温暖化を考えるのにも、冷却化を頭に置いて考える方が、考えにふくらみが生まれる。
現在のところ、「学校から塾へ」、もっと大きくは「官から民へ」と時代の風が流れているが、1世紀前は逆だったから、半世紀後に「塾から学校へ」「民から官へ」の流れが生まれる可能性もある。
しかしぼくは、もっと大きな流れとしては、「学校から塾へ」「官から民へ」を見た方がよいと思っている。理由は、日本に限ってみても、塾の歴史は千年以上あるが、学校の歴史は百年余りだから、塾の歴史の中で学校の歴史を考えた方がおさまりがよいから。そして、国の形がどうあっても、そこに人が暮らしているはずだから、官よりは民をベースに考えた方がいいと思う。これはべつに、民主主義とか人民主権とかいったイデオロギーの問題ではなくて、単にものを考えるためのスキームとしての利便性に過ぎぬ。学校教育といった制度が絶対とは思えない。
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