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2004/1 塾ジャーナルより一部抜粋

(悠々教育論 3) ハードな学力よりソフトな学力

森 毅 (もり つよし)
京都の三高(現在の京都大学総合人間学部)から、東京大学理学部数学科を卒業。北海道大学理学部助手、京都大学教育部助教授を経て教授。1991年に定年退官。京都大学名誉教授。以後、フリーの評論家として、テレビ、ラジオや雑誌、新聞などで、文化・社会一般について批評活動。
著書約100冊:「ぼけとはモダニズムのこっちゃ」(青土社)・「自由を生きる」(東京新聞社)・「東大が倒産する日」(旺文社)・「社交主義でいこか」(青土社)・「ええかげん社交術」(角川書店)・「21世紀の歩き方」(青土社)などがある。
 

基礎学力がなくても、必然的に生まれる新しい視点

このごろ、学力低下が話題になっているが、基礎学力ばかりが問題視されるのが、気にいらぬ。

ベトナム戦争より前のことだが、戦後補償の関係で、京大にもベトナムからの留学生がいた。なかなかいい子だったが、話をしていておもしろいことに気が付いた。日本の高校で教わっているはずのことを知らない。そのかわり、日本では教わっていないことを知っている。考えてみれば当然のことで、世界中が同じカリキュラムのはずはない。そのころ少数だが、アメリカやフランスやソ連(ロシア)に留学した日本の学生だって同じ経験をしたはず。国際交流は語学だけの問題ではない。

また、60年安保ブンドでマルクスばかり読んでいた若手の経済学者たちが、数学を勉強しだしたころがあった。60年代には30前後だった彼らは、今では日本の経済学者の大御所たち。彼等のお勉強会を手伝ったことがあるが、とても楽しかった。もちろん18歳から数学をやっている連中とは、発想の筋道が少し違ったりするが、そこがなかなかよい。それでぼくは、18歳の経済学部の学生が高校数学ができないことより、30歳の若手経済学者が数学を勉強し始めることのほうに、関心を持っている。

ぼく自身は数学少年だったが、戦争中の本のない時代だったこともあって、古本屋で数学の本をあさってきて、それを解読しようとした。解読というのは、それを理解するための基礎学力なしでやるよりないから。

これは案外に有効で、研究者になってからでも、専門書を読むとき、基礎学力を整えてからでは間に合わぬ。教授になって人事を扱うようになってからは、公募で論文が送られてきても、その分野の基礎学力は大学院生より劣る。それを用意しようとすると1年ぐら
いかかる。その分野にくわしい知人に教わりに行くのだが、彼の判断に従っては人事の自主性に反する。自分で判断するには、専門以外の分野のことでも、その分野の基礎学力なしで議論できなくては困る。それで、案外に、新しい視点が生まれたりする。

学生の学力、教授の学力… 劣る学力は文化力でカバー

この50年間の学生の変化ということでは、カリキュラムや教科書への依存度が変わったことだろう。戦前のことは噂話で知っているだけだが、東大の法学部の教授は本を書かないと言われていた。教授の学説を知るのは教室にいるものの特権だというのだ。ぼくが学生だったのは戦後だが、本(もちろん日本語と限らぬ)があればその分野は自分で勉強して、本がない分野の講義があると教室に聞きに行った。東大生だけではなく近くの大学の若手数学者まで集まってきた。

ぼくが教えるようになったのはその10年後で、もうそのころは大学でも教科書があるようになったが、教科書どおりにやっていると学生が来てくれない。それでなるべく、教科書と違うやり方を勉強して教室でやるのが、ライヴの長所。それが、どうしてわざわざ、教科書と違うことをするのですか、と言う学生が出始めたのが70年代。

そもそも、「今年の学生は学力がない」というのは、いつでも言われていた。それでも、よく言われた時期はあって、一番よく言われたのはぼくの学年。なにしろ戦争で、軍事教練やら工場動員があったから、ということにしておきましょう。ちなみに、旧制三高で江崎玲於奈は2年上だったし、学校は違うが河合隼雄が1年下だから、まあ同じ世代。

それほどではないが、全共闘の世代もよくそういうことを言われた。なにしろ、ヘルメットをかぶって走り回っていたからなあ。ただ、自分が学力がないと言われた人間が、同じようなことを口にするのは、はしたないと思います。

長く大学にいたので、「学生の学力はどう変わりましたか」と質問されるが、ついでに「教授の学力はどう変わりましたか」と続くところがニクイ。これは連動している。少し上の京大文化人、湯川秀樹や桑原武夫や貝塚茂樹や今西錦司と比べると、どう考えても、ぼくの世代は文化力が劣る。それに比べて、新しいことを勉強したぶん、学力があると言えなくもない。少なくとも若い世代はぼくらより学力があるから、「彼らは文化力がないからなあ」と言って、バランスをとることにしていた。

ハードな学力よりもソフトな学力をつける方が現実には有効

あまり昔話をしてもしゃあないから、ちょっと抽象化して、ハードな学力とソフトな学力と言うことにしよう。基礎学力なんてのは、ハードな学力の典型で、測定して目に見えやすい。ソフトな学力は、ハードな学力が不足していても何とかする力で、目に見えにくい。基礎学力ばかりが話題になるのが気に食わんのは、その故だろう。要求されがちなのはハードな学力だが、それとバランスする程度にはソフトな学力も考えてよい。

突如として現実的になるが、ぼくの体験からして、受験に役立つのはソフトな学力のような気がするのだ。

解き方を知ってる問題はまず出ない。それでも、知ってる問題を解いたときのことを利用して、何とかするよりない。英語だと、知らない単語が出てくるのは珍しくない。それでも何とか、意味をとらねばならぬ。試験でなくとも、日常に新聞や本を読むときだって、それをしている。こちらが、ソフトな学力。

その点でぼくは、今の受験勉強はハードに偏りすぎているような気がする。英語なら辞書なしで意味をとる訓練、数学なら見たこともない問題を考える訓練を、もちろん程度問題にしても、少しはしたほうが、受験本番にも役立つのじゃないか。

ついでに語学が苦手なことに居直って言うと、英語ばかりでなく、フランス語やドイツ語の本も見ないわけにはいかぬ。もっと苦手なのはロシア語で、これは文字まで違う。ぼくは発音も文法もええかげんだが、必要があれば辞書を引きながらでも読まぬわけにいかぬ。たまにだが、ポルトガル語とイタリア語に接したこともあるが、そのときは辞書もなかった。知人の文化人類学者には、百以上の国の言葉に接しているのがあるが、これはたぶん、ソフトな学力に頼っているのだろう。

別の知人の話だが、知らない単語が出てきたら辞書を引かずに意味を推量する、2度目にはそれを修正する、そして3度目には、辞書をひいて確認するのだそうだ。考えてみれば、日常に日本語でそれをやっている。
 基礎学力がないというと、そのハードな学力をつけることばかり考えるが、ハードな学力なしで何とかするソフトな学力をつけるほうが現実には有効ではなかろうか。

もちろん、バランスの問題であるのは、言うまでもないが。

 
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